dazai

太宰のゆるゆる生活日記

世界の一片に彼がいる

 

 「ピコピコ!」LINEの通知が鳴る。すぐに返信するのは面倒なので、スマートフォンのホームボタンを押し、誰からの連絡なのかだけ確認する。バイト先からであった。内容は、シフト交代依頼のものらしい。

 未だにシフト交代をするたびに、私はかつての恋人を思い出す。彼は、アルバイト先で出会った先輩だった。

 

 憧れの先輩と恋をした

 仕事が出来て上司からも信頼されていた彼は、当時一番の新人で失敗ばかりの私にとっての憧れだった。厳しいことを言うし、何を考えているかわからないし、怖いと思っていたところも正直あった。しかしそんな彼からいきなり食事に誘われた。天高らかにガッツポーズを突き上げる自分と、単に個人呼び出しで説教されるんじゃないかという恐怖心にビクつく自分がいたが、蓋を開けてみればそれはたちまち素敵な彼との初デートの思い出となった。年上の男性とレストランで食事をしてご馳走になるなんてと、それだけでも大人になった気がしていた、子どもな私であった。とても舞い上がった。手を繋ぐより先にキスをした自分が、大人の恋愛をしているんじゃないかと思った。バイト先の同僚、後輩達にも気難しい人とされているその人が、今自分の前で、ぶきっちょな笑顔を見せている。自分だけしか知らない世界を垣間見ている背徳感に、呆れるほどに酔いしれた。

 

 彼との大きな喧嘩

 彼と付き合って数ヶ月。私はいつまで経っても新人だった。待望の、次なる新人が入ってこない。しかし先輩達に可愛がられて、何とかやっていた。彼に唯一文句を言えるのが新人の私という事に対し、散々いじられたりもしていたが、それでも誰一人として私と彼の関係に気づいていなかった。

 彼との関係も良好に月日は流れていった。私の大抵のわがままも、彼がきいてくれていたからだ。しかし、そんな彼と私は大げんかをした。

 ある月、バイト先のLINEではシフト交代依頼が頻繁に飛び交っていた。みんな学生であるが故、各々事情があった筈だ。私はその時大学1回生。皆さんよりは些か進路に余裕があったし、何より一番後輩であったこともあり、自分が先輩方のために尽力を尽くさなくてはと思った。片っ端から、可能な限りシフト交代の依頼を受けることにした。それに、彼は怒ったのだ。

 

 「君は馬鹿なのか」

 私が覚えている限りの、彼の言い分はこうだ。

 そんなにバカみたいにシフトに入って、君は馬鹿なのか。計画性がないのか?これじゃ君の休みがなくなるじゃないか。新人の君がむやみやたらにシフトのカバーに入ろうとしても、体調を崩してもっと周りの人に迷惑をかけることになるかもしれないんだぞ。いいか。君が苦しまなくても、シフトの変更を依頼することになったそいつらの管理能力不足が招いた事態なんだから、そいつらが苦しむべきなんだ。自己責任ってやつだ。君がいまそうやって甘くすると、味をしめてまた君にすがってくる。悪循環だ。こうゆうことはやめろ。無視しろ。君が困っていても、そいつらはどうせ無視する。そういう奴等だ。

 

 彼への尊敬心が消え失せた

 この言葉を、バイトの帰り道に直接言われた。その時私がどういう行動に出たのかは思い出せないが、悲しみと怒りと、いろんな感情がぶわっと込み上げてきたことだけは生々しく覚えている。「この人は何を言っているんだ?」とも思った。私は彼とその後もお付き合いを続けることにはなるのだが、今思えばこの時すでに私の彼への気持ちは、帰り道に置いてきてしまっていたのだろう。

 冷めた。私の彼への尊敬心、恋心も勿論。彼は一体どういう人間なのか、見失ってしまった。私にはわからなかった。彼の考えが、到底理解できなかった。

 私の苦しみとは何なのか。彼は私の肉体的苦痛を案じてくれたようであったが、私には困っている先輩方を見ないフリして手を差し伸べなかったに対する罪悪感の念を抱くことになるという精神的苦痛の方が、よっぽど苦しく思えた。彼の言葉が、わからなかった。

 

 当時の彼と同じ年齢になった今

 今、彼と同じ歳になってみて思えるのは、彼の性格上、あれは本当に私のことを案じての言葉だったのだと思う。まあ言葉の8割くらいは本心なんだろうが。

 彼の言葉通り、その後シフト交代の依頼は真っ先に私の元へ回ってくるようになっていたし、私の変更の時、みんながみんな快く引き受けてはくれなかった。休みがなさすぎて体調を崩したこともあった。実際問題、彼の言葉は的中しまくりだった。しかしその度に彼のことを思い出し、「ほら、だから言ったじゃん」等と死んでも言われてたまるかと自分を鼓舞して頑張った。認めたら負けという、よくわからないポリシーが当時はあった。

 彼は大人だった。私よりたくさんの経験をし、広い世界を知っていた。対して私は子どもだった。大人の彼について行って、大人になった気でいたただの子どもだった。

  そんな私のことを「優しいところが素敵だよ」と讃えてくれる人もいる。認めてくれる人もいる。私の考えを馬鹿と一層せず、尊重してくれる世界がある。

 私は今、あの時より少し広い世界を見ている。彼が世界の全てではない。ほんの一片を見せてくれた、ただそれだけである。

 

 数年越しに響いています

 先程のLINEの連絡に対し、シフト交代の日にちを確認し、他に代われそうな人間がいないことを確認してから「その日空いてるから代わりに入るよ」とグループラインにメッセージを送る。

 後輩から「ありがとうございます」のメッセージと可愛い、スタンプが送られてきた。

 今では私もバイトの古株だ。可愛い後輩のために甘やかしてしまう先輩になりつつある気がしなくもないが、今でもそこはやっぱり精神の安定を守りたかった。

 ただ、他にも代わってくれそうな人がいそうな時には周りの出方を見て、それで出てくるのであれば私は休んで自宅でのんびりしようと考えるようにはなった。この瞬間、今でも私は彼のことをふと思い出してしまうのである。