dazai

太宰のゆるゆる生活日記

太宰貝塚ができるまで

 

 

 わたしは部屋が汚い。正直に言うと、床が見えている期間のほうが短いくらいだ。家族からは自室を「ゴミ屋敷」とよく馬鹿にされるが、すかさずわたしも「家全体が汚いわけじゃなく自室一点が汚いんだから、屋敷の表現はおかしい」と言い返す。そうしてなんだか虚しくなるというショートコントを何年にもわたって繰り返してきた。

 

 最近では障害を疑い始めている。ADHDの症状のひとつに「部屋が片つけられない」という症状があるらしい。その他症状にも諸々心当たりがあったため、わたしは今すぐにでも病院に行って「あなたの部屋が荒れている原因は、病気のせいなんです」と誤診でもいいから言ってもらいたいと強く思った。

 

 とにかくこの怠惰さを何かのせいにして罪悪感から逃れられたい。心底自分の中のけだるさは姑息だと思う。しかしながらけだるさのお陰でわたしは病院に行くことさえ現在叶っていない状況でもあるため、過ちを犯してしまう前のけだるさは抑止力にもなっているのであった。

 

 わたしの部屋が汚い理由は、単に物が捨てられないということにある。友人や生徒からもらったものは宝物のように大切にしまっておくし、好きな本はまた読み返すかもしれないから絶対に中古になんて売り飛ばしたりしない。学生時代に授業中でさえ開かなかった教科書さえも、たまに読み返して知識をつけられるだろうとバカみたいな理由を付けては取っておいてしまう。

 

 実際に読み返しているのは日本史の教科書と化学の資料集くらいである。森友学園の払い下げ事件の際にも、ぱらぱらと開拓使官有物払下げ事件」のページを開き、懐かしんだものだ。歴史は繰り返す。同じ過ちを繰り返さないため我々子孫は、先人たちの失態あるいは成功を学び、国をトラブルから回避させる義務がある。そんな大層な使命感と他者依存観念が、わたしの部屋の棚を歪ませる一番の要因なのだ。

 

 わたしは人へのプレゼントを選ぶのが苦手だが、プレゼントをすること自体は大好きだ。相手が喜ぶことをしたいし、一瞬でもいいから気持ちを高ぶらせてみせたい。お土産は勿論、何でもない時にでも物を買っては、自分の周りの人に貢いでしまう。

 

 苦手ながら、わたし自身はプレゼントすることに全力で挑んでいるため、なおさら他人からのプレゼントは捨てられないのだった。めちゃくちゃくだらない頭を掻くための曲がった棒や、年賀状でさえ取っておいてしまっている。正直使わない。「使わないものは捨てろ」ミニマリスト本にはうざったいほど書いているのでその通りに実行したいことは山々なのだが、やはりどうしても捨てられない。もしかしたら自分同様悩んで、選んで買ってくれたのかもしれないのだから...。悩ましいものである。

 

 このような葛藤を経て、わたしの他人へのプレゼントは消費品が多くなりがちになり、自身の部屋はますますとっ散らかっていくのであった。

 

 今では家族と話す機会も減ってきたため言葉には出されないものの、わたしが珍しく部屋を掃除すると「お、ゴミ屋敷から出るごみ袋の数は尋常じゃあねえなあ」的な視線を浴びる。「だから屋敷じゃ…」

 

 こうして歴史同様、ショートコントも繰り返される。機嫌を損ねたわたしは日本史の縄文時代貝塚のページを熟読し、またしても片付けの手が止まるのであった。